使節団の麻酔科学の講義はRhode Island 病院麻酔科部長Meyer Sakladが担当した。Sakladは、 イギリスやアメリカでは、麻酔専従医、学会、講座の順序で誕生した、日本では講座、専従医、学会の順序であった。戦前、わが国で専従医が誕生しなかった3つの理由がある。第1は麻酔の医療行為に対する蔑視、第2は1924年の九州大学からの全身麻酔下の胃癌手術の術後1カ月の死亡率が高いという報告、第3は1925年から10年間続いた平圧開胸論争である。 この間、アメリカから麻酔科学の情報をもたらしたのは、中谷隼男、永江大助、田中憲二の3人の外科医であった。東京大の中谷は1932年からドイツで臨床の研修を受け、アメリカではメイヨクリニックで麻酔法を見学して1933年に帰国した。永江大助は中谷が帰国した頃は学位論文の研究のため東京大青山外科に在籍中で、中谷の帰国報告の講話を聴講して麻酔法に関心を寄せた。彼は1936年にワシントンDCの日本大使館付き駐在武官となって出張し、8ヵ月を麻酔法研究のためメイヨクリニックで過ごした。帰国後、永江はメイヨクリニックで見聞したことを詳細に報告した。新潟医科大の田中憲二は1937年から脳神経外科研究のためシカゴ大学に留学した。アメリカでは胸部外科手術や脳神経外科手術が進歩していたが、気管麻酔法が発達しているためであると確信した。しかし、わが国の外科学界は彼らが報告した気管麻酔について全く関心を示さず、最新の情報は無視された。当時、日本とアメリカとの外交的関係が険悪になりつつあり、「敵性国」の情報として嫌忌する風潮もあった。こうして日本は1945年8月の敗戦を迎えた。 敗戦からの復興の中で、わが国の医学教育が大きく遅れていることが問題となり、文部省は慶應大の草間良男教授を1949年10月からアメリカに派遣した。各地の医育機関を視察した草間は彼地では胸部外科の進歩が著しく、麻酔科が独立して活躍しているからであると報告した。文部省は事態を改善するため占領軍総司令部に対してUnitarian Service Committeeの医学使節団の派遣を要請した。こうしてLong教授を団長とする11名の使節団が7〜9月まで来日して東京と京都・大阪で3週間ずつの講習会を行った。聴講者の殆どは外科の教授であった。同じ頃慶應大の天野道之助はGARIOA留学生としてシカゴ大学に留学した。アメリカでは麻酔科が独立した臨床の1部門であることを繰り返し強調した。講義の影響は大きく、翌1951年の日本外科学会では慶應大の前田和三郎会長が「麻酔学の教育と研究は緊急事である」という講演を行って麻酔科の重要性を訴え、これを承けて文部省は1952年に「麻酔研究総合班」を発弘前大学医学部麻酔科学教室記念シンポジウム70周年記念シンポジウム 記念講演会収載70周年記念シンポジウム 記念講演会収載第1部 13松 木 明 知中心として─現代の日本麻酔科学のあゆみ─学会創設と専門医制度確立を
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