日本麻酔科学会 70周年記念誌
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足させ、東京大に「麻酔学」の講座を開講し山村秀夫を助教授として発令した。これらによって全国の医育機関で「麻酔」に対する関心が高まり、研究が盛んになった。学会での「麻酔」関連の演題も急増した。第7回日本胸部外科学会会長の東京医大篠井教授は演題が増えれば、学会運営にも支障を来すとして、木本誠二(東大)、清水健太郎(東大)、福田 保(順天堂大)、前田和三郎(慶應大)と「麻酔研究総合班」の班長武藤完雄(東北大)の諸教授に呼びかけて1954年1月に会合を開いた。「麻酔科の学会」の創設を議論するためであった。参考人として山村秀夫助教授、天野道之助講師(慶應大)も呼ばれた。実はこれは表向きの話で、山村秀夫の1年間のアメリカ留学からの帰国を待ってこの話が持ち出されたものであった。 この会合では、1954年5月の日本外科学会で武藤が「日本麻酔学会」設立の趣旨を説明して、設立を提案し、事前に日本外科学会の重鎮塩田廣重東大名誉教授の内諾を得ることに決まった。こうして1954年5月に日本外科学会の評議員会と総会で承認されて「日本麻酔学会」が設立された。 新学会の最大の課題はマンパワーの不足であった。実状を把握するために1957年2月にアンケート調査が行われた。その結果、麻酔科に所属して「麻酔」に専従している者はわずかに30名であった。専従者が少ない理由として、「麻酔科」が「医療法」で規定されている診療科に含まれていないことが指摘された。1958年9月に山村が第6回の会長に就任した。山村は医道審議会委員や厚生省、日本医師会と精力的に折衝した結果、「麻酔科」が1960年2月に「特殊標榜科」として許可された。 「麻酔科」としては大きな前進であったが、次なる問題が起きた。「麻酔科」の標榜を行う条件の「規準1」に「適当な指導者」の下で2年間の修練が義務付けられている。この「適当な指導者」をだれが認定するかで多くの議論が交わされ、1962年3月の時点で以下の9人の麻酔科専任教授、天野道之助、稲本 晃、岩月賢一、高橋長雄、西邑信男、古川幸道、古川哲二、山村秀夫、米澤利英(五十音順)が「麻酔指導者認定委員会」を構成して「麻酔指導医」を認定することにした。1963年2月に東京大学で認定試験が行われ35名が合格した。そして認定委員の9名と併せて44名が第1回麻酔指導者として公表された。 学会も体制が整い、1961年には「用語委員会」、「社会保険対策委員会」、1962年に「指導医認定委員会」が設けられ、1967年には「運営委員会」、「医事紛争委員会」、「教育普及委員会」が設置された。「教育普及委員会」は研究費の配分を決定するためであった。 会員の地道な努力が少しずつ身を結んで、麻酔科に対する関係各科の理解も進み、文部省も「麻酔学講座」の重要性を認識して、全国の医育機関に着々と講座の開設を認可した。 1963年までに「麻酔学講座」が開講されていたのは12医育機関に過ぎなかったが、1964年からの10年間で43機関に新規に講座が開講された。このため会長選考を巡る問題が起きた。1〜5回の会長は学会設立に功労があった外科の教授が就任し、6回以降は教授就任年度、年功序列、開催地などが考慮されて決定された。しかし1973年頃から会長候補者が増えたため、長老たちのコントロールが効かなくなった。 会長選考のために激しい選挙戰が繰り広げられた。評議員会は1979年に「あり方委員会」を設置して、東京大の山村教授を委員長に指名した。山村は翌1980年3月に定年退官を迎える予定で、公正な立場で判断できるからというのが指名の理由であった。 「あり方委員会」は種々検討した結果、全国を7地区に分けて各地区から3名の候補者を推薦してもらい、評議員会の投票で会長を決定する案を出した。この案は一端了承されたものの、7年に1回のみ会長候補になる機会が巡ってくるという不満が出て、1985年には全国を8ブロックに分ける案14

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