齋藤(繁)、西脇、工藤の5人が、理事には有村、上山、尾﨑、木内、齊藤(洋)、坂本、白石、須加原、鈴木(健)、鈴木(利)、住田、中尾、廣田、横山の14人が入り、次の2年間は、常務理事に稲田(副理事長)、齋藤(繁)、白石、西脇、萬の5人が、理事には上山、牛島、尾﨑、川前、木内、佐和、鈴木(利)、鈴木(宏)、住田、瀬尾、西川、山蔭、山崎、横山の14人が入って、運命を共にすることになった。 理事長になって最初の仕事は、思いがけず、国立がんセンターの人事に関することだった。5年前に同センターの麻酔科医が一斉退職し、院長から日本麻酔科学会に後任の麻酔科医について相談があったことが発端らしい。その後、紆余曲折を経て、前理事長時代に所属の大学から麻酔科部長が派遣されていた。そして、了解事項として、理事長が主体となって(日本麻酔科学会として)国立がんセンターの麻酔科医人事を支援することになっているということを聞き、どうしたものか、悩ましい話だった。いろんな(政治的な)伏線があったが、思わぬ形で麻酔科医不足の課題と向き合うことになった。 2013年の学術集会(第60回)は札幌市で開催(会長は岩崎寛先生)された。特別講演で麻酔科学の大御所であるRonald Millerが「Future of our specialty (Anesthesiology) is dependent on the Pursuit of Excellence by our young anesthetists」、「We gradually became one of the most important physicians in the hospital」と語った。「若手麻酔科医たちが(麻酔の)卓越性を追求しさえすれば、わたしたちは将来、病院の中でもっとも重要な医師の一人になるだろう」とエールをもらった。 翌月には、ヨーロッパ麻酔科学会 (ESA) がバルセロナであり、理事長として、前日のESA Council Dinnerに招待された。その場には世界麻酔科学会 (WFSA) 理事長のWilkinson、ESA理事長KochsはじめGoldik、Bisschopら、米国麻酔学会 (ASA) 理事長のZerwasらが集まっており、世界の麻酔科学会をリードする人たちとの貴重な交流の場となった。 その年の10月のASAはサンフランシスコで開催されたが、そちらにも理事長として出席した(オープニングセレモニー会場の前列に私たちの席が設けられていた)。Rovenstine Lectureでは、John B Neeld Jrが「Winning the War」というタイトルで講演した。麻酔看護師 (CRNA) との戦争に勝とうというメッセージだった。全米の16州で麻酔看護師が麻酔科医なしで麻酔をしてもいいことになっている状況を憂いた講演で、拝聴して、日本は軽々に麻酔看護師を導入して、このような戦争状態にならないようにしなければならないと肝に銘じた。 その後、理事長時代に中国麻酔科学会、韓国麻酔科学会などにも招待され、国際交流を図る仕事が与えられた。第1回東アジア麻酔科学会の学術集会が2013年に開催され、その後毎年、開催されることになった。この頃は3国の麻酔科学会の蜜月時代といっていいのではないだろうか。 理事長として看過できない問題が起きていた。それは、特定行為を実施する看護師問題である。ことの始まりは2010年の第1回「チーム医療推進のための看護業務検討ワーキンググループ」の開催(厚労省)である。座長は救急医療の有賀氏で、以後、有賀氏がこのグループを引っ張っていく。 医師の業務負担を減らすために看護業務を見直し、「特定の医行為」ができる特定看護師を育成することを目指すものだった。まず看護師の実態調査が行われ、提出された最初の「特定医行為(案)」は驚くべき内容だった。なんと、そ1 最初の仕事2 学術集会と国際交流3 看護師の特定行為40
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